「どうしたんだ、その顔。」
八雲の第一声がそれだった。もちろん造りの問題ではない、表情の問題だ。
いや、表情も明るく振舞っているが…その下に隠れている不安げな…疲れたような表情を八雲は見逃さなかった。
土曜日、週に一度の恋人と逢えるのに晴香の心は沈んでいた。
そうして、ドアを開けた第一声がそれで晴香の心はさらに沈んだ。
顔に出てしまう癖は治らないのだろうか…。
「なんでもない。大丈夫だよ。あがって。」
そう言って晴香は八雲を部屋の中に導いた。
「…………………。」
八雲は怪訝な顔で晴香の後に続いた。


晴香は大学を卒業して念願の小学校教諭に就職した。
倍率は低くなかった…その中で、勝ち取った職業だった…。
それなのに、晴香は思い悩んでいた。
職場が悪いわけではない。
仕事場の人間関係も悪くない。
でも……満たされない。
何か違う…っと思ってしまう。


「今日は、どこかいくか?」
八雲にとって晴香の家はもう我が家のように過す場所となっている。
見慣れた風景が目に入ってくる。リビング。
「ううん…雨降りそうだし、家でゆっくりしようよ。そうそう美味しいケーキ屋さん見つけたの。」
にこりと笑みを浮かべて八雲に向き直る晴香。
「八雲君は座ってて。」
晴香はそう言ってキッチンに向かっていった…。
「……………。」
八雲はぐるっと部屋を見回して…ソファーに腰を下ろした。何も変わった様子はない。
俗的な言い方をすれば男の気配は相変わらずない。
さて、どうやって心の澱を吐き出させるか…
八雲はそれを考えながらお茶を待っていたのだった。


そうして、結局考え付いた方法がこれだった。
「どうした…?」
お茶のセットを終え、座ろうとしていた晴香の腕を引っ張って…八雲は晴香を捕まえた。
そうして晴香が優しく抱きしめられていると感じるぐらいの力でぎゅっと抱きしめた。
あぅっと…いう声が聞こえてきて腕の中で縮こまったのが分った。
「…八雲、君?」
「表情が沈んでる…。何があったんだ?」
「な、なにもないよ?」
晴香はそう言って八雲を見上げた。
心配をかけまいと、必死に表情を隠して…。だがそれが八雲に確信を与える事になる。
なにか、上手く行っていないという事が。そうして見つけたものがある…。

「…くまが出来てる…それに、目が赤い。」
そっとそのくまを撫でる八雲、そうして瞼に愛おしげにキスをした。
「八雲、君」
観念したように、晴香は表情を隠さなくなり。沈んだ表情を顕にした。
「何か、悩み事か?」
「う…ん…」
「仕事、上手くいってないのか?」
「ううん、大丈夫!…。」
観念したといっても、やはり心配をかけたくないのか…咄嗟にそういってしまう晴香。
その反応に、八雲はため息を付いて…抱きしめる腕に力を込めた。
「…僕にそんな嘘を付けると思うのか?」
「う、そじゃ…」
「どれだけ恋人してると思ってるんだ。」
呆れたような、すこし怒っているような八雲の声に…晴香はまた縮こまった。
「……心の中に溜め込んでるもの、全部吐き出せよ。」
できるだけ、優しい声で八雲はそう言った。
「私…。」
暫くして、ポツリと晴香が言葉を発した。
「うん?」
後の言葉を促すように…そう言う八雲。
「子ども達と…上手く話が、できないの…」
「上手くって?」
「…低学年の子達って…難しい言葉、分らない…のに。」
上手く噛み砕いて話せないの…。
そう、沈んだ声が聞こえてきた。
「担任は4年生じゃなかったか?」
「そう、だけど…他の学年の子達とも関わるでしょ?」
「まぁ、そうだな…」
「大学であれだけ教えてもらってたのに…出来ないなんて…」
そこで息を吸い込んで…ゆっくり次の言葉を発した。
「向いて…無いのかなぁ…って…」
シャツをぎゅっと捕まれたのが分った…。
「それを、悩んでたのか?」
こくりと頷いたあとで…晴香はぱっと顔をあげた。焦りが見える表情。
「ごめん、慰めて欲しいとかじゃないの…誰かに、聞いて欲しかっただけ…」
そう言うと、明るい表情をしながら…晴香は八雲を見上げた。
「ココア、冷めちゃったね…あっためてくる…。」
腕から逃げようとした晴香を、八雲は逃がすまいと抱きしめた。
「八、雲君?」
「焦らなくも、いいんじゃないか?」
八雲はそう言いながら優しく髪を撫ぜた。
「…1年目だ、最初から完璧を求めなくてもいいだろ。」
「うん…。」
「仕事のことでもひとりで抱え込むなよ。ぼくがいるんだから…。」
「ん…。」
一度離した手を…晴香は再び八雲に向かって伸ばし…抱きついた。
「言葉を気にするなら…もう少し、年齢を上げてもいいのかもしれないな…」
「え?」
八雲の言った言葉が理解できずに思わず顔を上げた。
「…中学校の免許も持ってるんだろう?」
「うん…国語…だけど。」
「…1年間…頑張ってみて…無理そうなら別の道を探してみてもいいんじゃないか?」
人生、やり直しはいくらでもきくんだから…。
八雲はそう言うとその額に優しくキスをした…。
「ん…ありがとう…。」
ゆっくり晴香は微笑んで…八雲にキスをした。
そうして思う。
自分にとってやっぱり八雲は大事な存在なのだと…いうコトを…。